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1702年のニューファンドランド遠征(-えんせい、Newfoundland Expedition)は、イングランド王国の海軍による、北アメリカのフランス入植地への攻略遠征である。1702年の8月から10月にかけて、艦隊指揮官のサー・ジョン・リークが、北大西洋のフランス入植地であるニューファンドランドと、その勢力下にあるサンピエールを狙って、壊滅的な打撃を与えて、フランス船を50隻以上拿捕した。 ==遠征の背景== 1701年にスペイン継承戦争が起こり、各国による交戦が始まっていたものの、イングランドはスペインに大規模な海軍の出動を考えていたため、翌年までは参戦しなかった〔Campbell, pp. 280,347–348〕。1702年の6月9日(ユリウス暦、フランスの日付はグレゴリオ暦による)〔Unless otherwise indicated, dates in this article are in the Julian calendar. French sources dealing with these events would record them in the Gregorian calendar.〕、ニューファンドランドは、海軍卿であるカンバーランド公ジョージの最高顧問ジョージ・チャーチルの標的となっていた。 チャーチルはリークに「殿下に私から、お前のニューファンドランドの軍指揮官任命をお願いした。お前はあの地の総司令官だ」と告げ〔Leake, p. 91〕、リークは6月24日に正式に任命され、ニューファンドランドのフランスの兵力を調査すること、「港と海とで嫌がらせをすること」という2つの訓令が下った。また、それとは別に商船の護送をすること、イングランド入植地とそこの漁業について報告すること、そしてニューファンドランドでは、総督のようにふるまうことといった任務もまかされた〔Leake, pp. 92–94〕。 7月22日、リークは、9隻の軍艦から成る艦隊を率いてプリマスを出港した。うち6隻は戦闘態勢が整っていた、その6隻とは、エクセター(1697)(:en:exeter (1697))、アシスタンス (1650)(:en:HMS Assistance (1650))、モンタギュ(1654)(:en:HMS Montague (1654))、リッチフィールド(1695)(:en:Lichfield (1695))、メッドウェー(1693)(:en:Medway (1693))、リザーブ(1650)(:en:HMS Reserve (1650))である。〔Cambell et al, p. 365〕 ウィリアム王戦争中、ニューファンドランドは多くの戦闘が繰り広げられた。1696年の、ピエール・ル・モイン・ディベルヴィユ率いるフランスと先住民の軍は最も大々的で、破壊的な攻撃をした。この地域のイングランド植民地は殆ど壊滅状態となった。そのうちの多くはほどなく再建され、セントジョンズのイングランドの港は要塞化された。〔See timeline in Prowse, pp. 208–209〕 ニューファンドランドの、フランスの恒久的な入植地は、どちらかといえば少ない方だった。トレパシー湾やサンマリー(セントメアリー)の入植地は、夏場に漁をする漁師たちが使うもので、彼らは、漁の時期が終わるとヨーロッパに戻って行った。〔Prowse, p. 185〕中心となるプラセンシア(プレザンス)は恒久植民地で、要塞には駐屯兵がいた。1702年、その駐屯兵たちは、一時的にフィリップ・パストゥール・ド・コステベルの指揮下にあった。この人物は入植地の海軍の大佐で、次期ヌーベルフランス総督のダニエル・ドージェ・ド・スーベルカースの代理だった。(この総督は1703年まで着任しなかった)この地に定住しているフランスの入植者系住民は180人ほどであったため、1713年に植民地が廃棄されると、すべてが他の地へ移住して行った。〔 フランスは、ニューファンドランドのすぐ南にあるサンピエール島にも、小さな植民地を作っていた。そこはセントローレンス湾の外側に位置していた。1702年の7月に着任したばかりの、総督のセバスチャン・ル・グエは、数台の大砲を備えた木造の要塞をここに築いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ニューファンドランド遠征 (1702年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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